追分温泉は天然記念物、イヌワシが生息する翁倉山の麓に湧く、峠の一軒宿。その峠の入り口には北上川が海へと注ぎ、葦が河口を埋め尽くす素晴らしい景色に出合える。峠の細道を走り、「この道でいいのかな・・・」と思い始めたころに追分温泉は姿をあらわす。館内随所にランプの宿だった頃の面影が残る、言うならばはだか電球の宿。木にとことんこだわった館内は、古いわけではないがどことなく昔の木造校舎のようなたたずまい。浴室の戸を開けると、樹齢500年を超えるという総榧で組まれた浴室が展開されていて、木風呂好きにはたまらない光景が飛び込んでくる。また天井に目をやると北上川河口で黄金にゆれる葦(つまり茅葺の材料)で出来ている事も見逃せない。追分温泉は現在のご主人の祖父が金を探してこの地に入植し湯治場を開いた。その後、長い間湯治客専用の宿であった。ご主人自身、湯治はこの宿の原点であり、長くこの宿を愛してくださっているお客さんを大切にしたいという考えだ。山のものはもちろん、すぐそばは三陸の海なので、ここはまさに食材の宝庫。知らずにこの料理が出てきたら、驚くかも。いや正直言って驚いたのはその味のほう。素材重視の料理ではあるがレベルは高い。この料金でこの量、この旨さというのは他では出会った事がない。あわびやうに、タラバガニなどの炭焼きは追加注文。予算に応じて用意してもらえる。この日は焼きタラバガニ、アワビの網焼き、そしてアワビのバター焼きをたのみました。季節によってウニなども登場するので、お気軽に宿へ問合せてみると良いでしょう。どうしてこんなに料理に気合が入っているのか・・・ご主人さんに訊いてみた。「大きな宿ではないですがが、全員のお客さんにご挨拶するのはやはりできません。だからせめて自分がつくる料理で、おもてなしの心が伝わってくれれば・・・」との思いからだそうだ。板張りの館内ははだか電球のおぼろな灯りに照らされてやさしい光を放つ。木へのこだわりは徹底していて、窓枠もサッシを使わずに木枠。年月を重ねる毎に味わいの増してくる事だろう。囲炉裏の備わる特別室(写真)には神代杉と呼ばれる秋田杉の埋木や欅の埋木が使われている。 もともとは地元の人々に愛されてきた湯治場。訪れるお客さんを見ていると、今でもこの温泉が湯治場として愛されているんだなという感じが伝わってくる。湯治客と旅行客が同じお風呂に入って、同じ宿で一夜を過ごす。これってとても楽しい経験だと思う。
ご主人はもとから温泉好きで、青森県八甲田山の酸ヶ湯温泉の千人風呂が大好きなのだ。そのため、当初は青森から本場のヒバ材を取寄せる事で話が進んでいたが、地元でとれる榧(かや)と呼ばれる素晴らしい木材に出会い、この風呂が出来あがったのだ。この幻の木といわれる榧は碁盤の材質にもなる高価な木材で、榧で作った碁盤は最高級品。ちょっと調べてみたのですが、本当に貴重な木材のようで、それで浴槽を作るなどはどれほど贅沢な事かと驚きました。と、そんなまえおきを考えなくともこの榧のお風呂には檜を上回る風格を感じた。秘湯ムードいっぱいのロケーション、素晴らしいお風呂、三陸の海の幸の料理。この三つが高い次元で実現されてとても満ち足りた気持ちになります。追分温泉は五感でこの"北上の地"を味合わせてくれる貴重な宿だ。それなのにこの料金!最初はミスプリントかと思いました。 ご主人曰く「お客さんがくるから値上げをする、来ないから値下げをするという考えは、お客さんに失礼なので。」との事。現在"秘湯は客を呼ぶ"しかしご主人とお話をしていると、この木造の宿も期をてらった客寄せのものではなく、木が持つぬくもりを愛してほしいという気持ちが伝わってくる。年配の方はもちろん、コンクリートの壁の中で育った私だって、この木造校舎を思わせる建物を懐かしく、ぬくもりをかんじてしまうのだ。